日本画とは何か?
ーその答えの先に。弔い役としての日本画家ー

日本大学明誠高等学校研究紀要第32巻掲載

ヲ、今後の日本画の展望

<村上隆とオタク文化の輸出>

 ここで、海外的に評価の高い日本人現代作家として村上隆を取り挙げて現代の日本画を考察してみたいと思います。「えっ、村上隆は日本画じゃないでしょ。」と思われるかもしれませんが、実は根っこの深い所で、繋がっているのです。彼は日本画の上記の二つの問題にある答えを示しました。
 彼は元々、東京芸術大学の日本画科出身で、日本画を描いていました。今も日本画の屏風の様な作品を描いたりしていますが、全体としてはアニメ風だったり、オタクのフィギアのようだったり、日本画とか洋画とか彫刻とか現代美術とかの垣根を越えて、自由に制作をしています。彼の斬新さは、その表面的な新しさに留まらず、日本文化を洗い直し、それをうまく海外へ売り込んだ点にあります。彼は、海外からどうやれば高い評価をうけるか。に戦略の的を絞った結果、先に挙げた日本の伝統的な美術の特徴を全面に展開する方法を利用しました。「装飾性な用の美」と「平面的な処理と線を生かした造形の強さ」「遊び心や空想的な物語としてのおもしろさ」を「オタク文化」的なテイストで表現したのです。

 村上がオタク文化に目を付けたのは慧眼でした。オタク文化には世界にない独自性が備わっていたのです。それを一言で言うと「理想郷」です。日本国内では、オタクイメージは「現実離れしていて、使えない奴。」というマイナスイメージとしてとらえられがちです。ところが、世界的な視野で見た時に、「フィギアの女性に萌え〜。」とか言っている中年の男性が社会にたくさん存在していて、フツーに生活しているということは驚きをもって迎えられました。ヨーロッパに限らず、世界のどの国でも現実が重く生活にのしかかっています。人々は、人種差別、性差別、戦争、レイプ、貧困、人身売買、麻薬、放火、爆弾テロ、政治の不条理、数え上げるときりがないくらい、現実のさまざまな軋轢と闘いながら生きています。その世界から見た時に、アニメの女性やフィギアに恋をして、現実の女性と付き合えない男性というのが、奇異に見えると同時に、そのような男性や女性が社会から遊離して引きこもり、脳化現象を起こしながらも、それなりに楽しそうに生きていける日本という社会に、あこがれと羨望のまなざしが向けられたのです。一言で言えば、オタク文化への評価は、マルコポーロ以来の「黄金の国伝説」なのです。村上隆がねらったのは、その新しき「黄金伝説」にのっかり、うまく自分自身をプロデュースすることでした。

 その事はまさしく、村上の次の様な言葉に現れています。「僕はアートもアーティストも要らなくなるんじゃないかと思っていますよ。だから、日本は未来なんだと思うんですよ。そう思いません?宗教もなくなっちゃったし、エンターテイメントの強大な力だけが必要であって、だから逆にいうと、劣勢を強いられたアートというメディアが最後の砦を守るべく、いま一所懸命やっているわけですよ。オリエンタリズムとかを引用しながらなんとか最後の砦を守ろうとしている。僕はなかから食い破っちゃっているけど。インタビューによってはビジネスに力点をおいたり、あるところではオタクの文脈で話をしたりするけど、僕の制作のモティベーションはそういったものを全部バインディングしてプレスしようとするところからきている。『美術手帖2000 5二十一世紀建築、スーパーフラット』より」
 ここで示されているのは、彼自身、自分の作品を、もう芸術の文脈でとらえていないという事なのです。それは、未来の世界像を提示するためのポスターとか、カードとかそういう位置づけとしてとらえ機能させよとしている点なのです。それは、アンディー・ウォーホルが示唆した世界。「誰もが、誰をも区別できなくなる社会、オリジナルという概念が死滅する社会」でのアートは複製画として誰が描いても同じになる「脱オリジナル」に基軸がありました。彼の企ては、彼の死によって頓挫しますが、彼が提案したアートは共産主義によって社会化されるのではなく、実は日本のオタクたちによって実現、共有されていたのでした。そこでは、フィギアを作る人間たちがつつましやかに、オリジナルを宣言する事なく、自己の世界に埋没します。彼らによって創作された作品たちは、ただそこに存在しているのです。
 村上はそれをうまく利用し世界に向かって脱オリジナル、脱近代、脱西欧を宣言しました。オタクが実現した社会を村上が宣言する事によって、西欧の芸術の文脈にのせる事に成功したのです。つまるところ、オリジナルが解体し、オリジナルはないんだよ。ということをオリジナルの文脈で確認し、評価を受けたのが、村上隆だったのです。オリジナルの否定は、オリジナルの文脈でしか示せないのです。
 村上は世界の美術史の文脈で評価されましたが、国内での評価は低いままにとどまっています。その理由は3つあります。

1、 オタクが国内では自明であって、かつマイナスイメージであること。
2、 オタクにとっては、先に述べたように、オリジナルを否定したところにオタクの本質があるのに、それをオリジナルの文脈にのせたということが掟破りにしか見えなかったこと。
3、 日本の伝統的な美意識がそれを受け付けなかったこと。西欧において、芸術は時代時代で変わっていくものだととらえられ、変わるからこそ、そこに新しいイズムが生まれるととらえられています。ところが、日本には良くも悪くもある種の自明性として、芸術あるいは芸術的なものが残っていると信じられているからです。日本は日本の独自の美術史を形成してきて、それについての自負というか。日本美術史的な伝統というよりも、もっと、土俗的な、世俗的な美意識。その伝統的な美意識が、村上の新しさを否定するのだと思います。ただし、その自明性に疑問符「?」を投げかけた村上の意義は正当に評価されるべきだと思っています。

 さらに、私は日本美術だけではなく、現代の日本画界にあたえた衝撃としても評価するべきだと思っています。村上の試みは、3つの意味において、日本画界にインパクトを与えました。

1、 日本画が切り捨てた日本画の伝統的な良さを全面に打ち出した点。
2、 明治以降の日本画家が自分たちに日本画の正統性があると信じていたものを奪還したという点、
3、 それまでの日本画界もアートを経済行為として積極的にとらえていましたが、国内の市場に限られていました。それを世界的な経済市場の視野でとらえたという点。
三つの意味において、現代の日本画を超えたという点は高く評価できるのではないかと思います。かつて岡倉天心たちが目指した「新時代の日本画は『日本的』であると同時に『国際的』であること。」それが、素材やシステムとしては日本画を逸脱しながらも、日本的でかつ世界に通用する美術を打ち立てた、初めてのケースでした。その意味でも、正統な日本画の継承者といってもさしつかえないのではと思います。

<オタクアート以外の日本画の可能性>

 村上の取り組みは、一見実を結んだかのように見えますが、本来の日本美術の可能性とはいえないと私自身は感じています。「黄金の国」はあくまで、西欧から見た幻想でしかないからです。マルコ・ポーロが日本を見たときに、藁葺き屋根が輝いて黄金に見えた。実はただの藁でふいた家だったのと同じに、オタクは、世界から見ると一見幸せに存在しているかのように見えますが、実態はそうではありません。若者のオタク化は、本人たちの切実な問題(俺様化、パラサイトシングル、孤独死など)であると同時に、社会問題ともなってきています。(ニート、フリーターなど労働力の低下、未婚化による人口現象など)彼らがいずれ、社会の不良債権と化してゆくというシリアスな結末を予言する識者もいます。
 つまり、世界にオタクの理想社会を喧伝するアートが一回は評価を受け時代を先取りすることはあっても、今後、世界が都市化、電脳化していく中で、それらが別の現実、リスクを孕んでくる。その現実を抱えた社会を基盤とした新たなアート、あるいはアプローチが必要になってくると思います。ここでは、考える方向性を二つ示しておきたいと思います。
 一つは、電脳化する社会が世界の趨勢となって、それに対応した美術の歴史が展開していく。もちろん、そこに日本画の入り込む余地はないと思います。現代素材を用いた現代アート、あるいはコンピューター上のバーチャルな表現として発展することでしょう。
 もう一つは、それら電脳化に反発して、あるいは、その対極として、芸術や日本画が生き残っていく方向。現実に社会はどんどんバーチャル化しています。たぶん、その流れは加速するでしょう。しかし、バーチャル化できない事象が、二つあります。一つは暴力。一つはセックスです。もちろん、バーチャル暴力とバーチャルセックスは、ちまたにあふれています。(インターネットの技術が軍事目的に開発されて、セックス産業で発展している事は、興味深い現象です。)しかし、その二つは、どんなにバーチャルでそのイメージを消化する事はできても、その目的を達する事はできません。現実に人を殺すか、セックスするか。つまり、どんなに社会がバーチャル化しても、いわゆる、「リアル」とういうのは、決して無くならないばかりか、「リアル」にしかできないことの、意味が大きくクローズアップしてくるのは必定です。料理をすること、音楽を聴くこと、スポーツをすること、人と語り合うこと。昼寝すること、いっしょにいること。我がまま言うこと。泣くこと。汗を流すこと。水を冷たいと感じ、日差しを暖かいと感じること。草の柔らかさを知り、土の湿り気を感じること。鳥が歌い、風が流れ、それにのって春の匂いを嗅ぐこと。
 それら「リアル」の中で人は幸せに生きることができるのか。それとも「バーチャル」の中でそうすることができるのか。それは拙速に答えを出すことはできないと思います。しかし、「リアル」が無くならないことも事実です。私は「リアル」の中に、日本画の可能性も残されていると思うのです。



はじめに

1、日本画とは?

2、材質・素材からのアプローチ

3、属性からのアプローチ

4、歴史からのアプローチ

5、システムからのアプローチ

6、日本画とは?/結論

7、現在の日本画の問題点

8、今後の日本画の展望

9、私にとっての日本画

おわりに

<参考文献>

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