日本画とは何か?
ーその答えの先に。弔い役としての日本画家ー

はじめに

1、日本画とは?

2、材質・素材からのアプローチ

3、属性からのアプローチ

4、歴史からのアプローチ

5、システムからのアプローチ

6、日本画とは?/結論

7、現在の日本画の問題点

8、今後の日本画の展望

9、私にとっての日本画

おわりに

<参考文献>

」、システムからのアプローチ

<教育、公募展システムとしての日本画>


 次は日本画をシステムの面から考えていきましょう。これは、日本画を大学の日本画科とか、日本画の画壇、公募展、画廊システムとしてとらえる考え方ですが、実はこのアプローチが一番現実的な日本画の捉え方です。
 まず、日本画の団体展(公募展)は大きく3つあります。日本美術院展、日展、創画会。それに所属していない作家は無所属と称されています。かつては、日本画家であるというのは、多くの場合、この3つの公募展に出品していることを指していました。公募展に出品していない作家の場合でも、独自の美術運動を展開している人達が多かったので、一人で「自分は日本画家である。」という場合は、発表の場が限られ、他から日本画家と認められるのは難しかったのではないかと思われます。ただ、無所属作家はやはり傍流で、主流は公募展の作家たちでした。そして、それぞれの団体展での評価や序列が画商や美術界に影響を与えて、大きな権力になっていたといっていいでしょう。
 ただし、これも現在はかなり変わってきていて、無所属といういい方自体がぴんとこなくなっている若い日本画家も多く、団体展システムが美術界の評価の部分では壊れつつあります。特に、新聞やテレビ、雑誌では団体展をそのまま取りあげることがほとんどなくなってきました。一部の人気作家を取りあげる事はもちろんありますが、それも、公募展、無所属という境界線はあまりなくなってきています。ただし、一般的にはまだまだ、日展、院展(日本美術院展)、創画展というネームバリューは強く残っています。
 また、日本画が当初から美術教育として創設されたように、多くの美術大学には日本画という学科が存在しています。洋画と日本画の区別は入るときに受験方法の違いや、教授の違いなどにありますが、現状としては、日本画だからといって花鳥風月を描いているという学生はまれです。ほとんど、素材以外に洋画と日本画の区別はなくなってきていますが、洋画の学生の多くが現代美術のインスタレーションやオブジェのような方向に移行していっていることを考えると、日本画にはまだまだ少ないという意味での違いはありますが、かつての、花鳥風月と油絵の違いではなくなっています。

 ただ、システムから日本画を考えるときに、「日本画とは何か?」と問われて、「日本画壇に所属しているから、日本画です。」と答えたのでは、「じゃ日本画壇って何?」となる訳ですから、答えになっていません。しかし、それがそれで通用するのは、日本画の成立のプロセス自体が、まさしく、システム優先だったからです。日本画という概念を作ろうとした時に、概念より先に学校が。概念より先に、展覧会ができていたのです。前者がフェノロサや岡倉天心が設立した「東京美術学校の日本画教育」であり、後者が岡倉天心や横山大観らが創設に関わった「日本美術院展」です。つまり、日本画という存在は、出生のときから、概念よりもシステムが先に存在していたために、「日本画とは何か」という問いが後追いになってしまったのです。だからこそ、最初の野地の言葉「生まれた当初からその定義や概念規定が無いのである。」につながってゆくのです。

<経済活動としての日本画>


 また、戦後の日本画壇を語る上で、大学教育や団体展以上に、大きな影響をもったのが、デパートも含む画廊・画商システムと新聞社の後援です。戦後、「第二芸術論」という考え方がありました。それは、西洋からもたらされた油絵や彫刻は芸術としての位置づけが高く、日本画やその他の伝統芸能はそれより、一ランク低い芸術であるという考え方です。あるいは、「日本画滅亡論」などと考え合わせた時に、なぜ、日本画というジャンルが生き延びる事ができたか、もちろん、さまざまな要因が考えられますが、中でも、かなり大きな要因として、経済活動の一環として日本画が存続したという考え方があります。

 現在、日本の展覧会が主にどこで行われているか、お分かりになるでしょうか。一番多いのが美術館です。特に国公立の美術館。それから、デパートの美術館もしくは特設会場。そして画廊です。
 美術館で開催される展覧会の主なスポンサーは新聞社です。新聞の販売促進の一環として、美術館の展覧会の後ろ盾となったのです。また、日本画の展覧会が開催される機会が多いのは、デパートの美術館もしくは、特設会場です。これは、日本独自のシステムで、ヨーロッパなどではあまり見られないそうです。デパートというのは百貨店。つまり、なんでも売っている店ということですが、絵画も売れれば商品としてとらえられたのです。芸術としての絵画というより、「商品としての絵画」はデパートをひき付けました。売るだけではなく、人気作家の展覧会を開催する事で、客が集まる。ということで、二重の意味において、日本画はデパートの特設会場を彩る事となったのです。もちろん、絵画の販売には百貨店だけではなく、画商が大きく貢献しました。つまり、彼らの経済活動の商品として、戦後の美術特に日本画は支えられてきた側面が強いと言えます。
 では、なぜ洋画ではなく、日本画かということですが、これは憶測もふくみますが、あえてお話したいと思います。それは、「日本画」というシステムが彼らの流通販売に都合が良かったということです。一時期、絵画投機が華やかだった頃の話です。例えばピカソが一億円で売られていたとします。そこへ日本人作家の油絵の作品は1億円の値段をつけられません。日本でしか流通しない油絵の作家に1億円出すなら、世界の美術史に名前の残るであろうピカソを買った方が得だからです。ところが、日本画家であれば、日本の市場が判断しているのですから1億円の値段をつけてもかまわないわけです。ピカソとは直接関係ないわけですから。
 つまり、土地やゴルフ会員権同様、絵画を投機対象にするためには、アメリカやヨーロッパの価値規準から一旦切り離して、操作する必要がありました。それに「日本画」はうってつけだったのです。
 今、述べた様な絵画を巡るお金の話は、あくまで、憶測も含む推測としてしかお話しできません。ただ、一つ言える事は、これらの一見下世話なお金にまつわる話題も、「日本画を考える上ではずせない重要な要因である。」ということなのです。先の菊屋吉生氏の言葉を借りれば「美術マーケットが、ひたすら売れやすい安易な具象画としての日本画をもてはやしたこと」が日本画低迷の一因であると述べています。私自身も、これらの絵画の経済活動が相当大きな力を持って、戦後の日本画界を動かし、それがプラス要因として働いていた時期もあっただろうし、マイナス要因として働いた時期もあっただろう。と思います。しかし、日本画を純粋な美術運動とだけとらえて、経済的な側面を無視すると日本画の動向を見誤るとも思っています。

 過去も現在も、美術が社会、政治、経済それらから自立して存在した事はありません。狩野派の絵師たちが時の権力者と不可分だったように、琳派の画家たちが江戸商人の財力と深く結びついていたように、常に、それらの影響、あるいは、動機をも形作られながら、その時々で、絵画の命脈を保ってきたのだと思います。経済活動は生き物のように自律して働きます。その経済活動とどのように距離をとりながら接してゆくかは、ひとえに画家自身の問題です。つまり、作品を商品として扱う経済活動がいけないのではなく、それに呑み込まれてしまう、あるいは、それに左右されてしまう画家自身にその自立性が問われているのだと思います。戦後の日本画を動かしてきた最大の原動力はマーケット、つまり経済活動であった。と私は思っています。

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