日本画とは何か?
ーその答えの先に。弔い役としての日本画家ー

日本大学明誠高等学校研究紀要第32巻掲載

「、歴史からのアプローチ

<日本画という概念の発生>

 そこで次に、「日本画」という言葉が生まれて来た歴史的背景を探ってみたいと思いますが、その前に、世界的にみて国の名前を冠して「〜画」というような例があるかどうか考えてみますと、どうでしょう。「フランス画」とか「アメリカ画」などという言葉、概念が用いられた例は私の知る限りありません。では、なぜ日本にだけ「日本画」という概念が生まれたのでしょうか?
 まず、日本画という言葉が歴史に登場してくるのは明治20年頃です。それまで、「日本画」にあたる概念としては「大和絵」とか「和画」がありました。「大和絵」という言葉は、中国からきた「唐絵」に対して、「和画」はやはり「漢画」に対して、日本の絵画を区別するために用いられた言葉です。しかし、明治時代になって、ヨーロッパの文明が一挙に流れ込み、社会システムや科学技術、習慣風俗が日本に導入されるとともに、洋画に対して、既存の日本の絵画を何と呼ぶかという必要に迫られ「日本画」という概念、言葉が使われるようになったのです。その経緯を記した文章があります。 「『日本画』『洋画』という概念用語と対置構図ができあがったのは、明治20年代である。国家体制の完成を背景に、新時代の絵画はいかにあるべきかを問う議論の中で、日本式・西洋式の二大選択肢として設定されたのであった。ここで、それまで素材・技法(油絵・水墨画など)や流派名で呼ばれていた諸絵画は、自らの文化圏的な出自を確認し、『日本画』『洋画』のいずれかに帰属することになった。当初、『日本画』『洋画』の語は、より全体的な日本絵画・西洋絵画の意味でも使われていたが、近代絵画のそれにかなり限定的に使われるようになるのは、第二次世界大戦後になってからである。(『日本美術館』佐藤道信より抜粋)」  ここで重要な指摘は2点あります。前章「属性からのアプローチ」のところでも少しふれましたが、一つは、日本画が広義には、全体的な日本絵画・西洋絵画の区別として用いられていたが、戦後、近代以降「日本画という概念ができて以降」の狭義の意味での日本画に用いられるようになった。という指摘と、もう一つは、狭義の日本画の概念が「国家体制の完成」を背景にして成立したという指摘、つまり、自然発生的に日本画とか洋画とかという概念が生まれたのではなく、国家体制という、政治的な要因が大いにその成立に関与しているという点なのです。そして、日本画と西洋画という区別は、対置構図という以上に対立構造として機能し始めるのです。日本人のアイデンティティーを支える精神構造の代理戦争として。


<西欧への対立構図としての日本画>

 少し先を急ぎすぎたようなので、広義の日本画はひとまずおいて、狭義の日本画成立のプロセスと、この対立構造がどのような形で顕在化したか、そこから見て行きましょう。まず、日本画は美術教育における日本画科の設置という形で始まります。そのいきさつについてまとめた文章があります。
「明治10年代後半から台頭した国粋主義の波に乗り、1887年、アメリカ人アーネスト・フェノロサと岡倉天心によって設立された東京美術学校は、官立の美術学校としては工部美術学校に次ぐ二番目の学校だった。(開校は1889年)。しかし両者の内容は、正反対のものだった。工部美術学校が西洋美術のみの学校だったのに対して、国粋派の牙城だった東京美術学校では伝統美術のみが教えられたのである。フェノロサと天心が目指したのは、西洋美術の直移植でも、守旧的な伝統美術の復興でもなく、新時代の近代国家にふさわしい、西洋美術を吸収した新たな伝統主義美術の創出だった。 (中略)ただ、フェノロサや天心の目指した美術も、その実態は、西洋人と日本人、西洋美術と伝統美術の共闘によるものだったことが象徴するように、あくまで、「和魂洋才」の方法論にのっとったものだった。新時代の美術は、『日本的』であると同時に『国際的』であることが求められたのである。それは、近代国家としての日本が目指した国家像そのものだった。(『日本美術館』佐藤道信より抜粋)」  やはりここで重要なのは「工部美術学校が西洋美術のみの学校だったのに対して、国粋派の牙城だった東京美術学校では伝統美術のみが教えられたのである。」にも拘らず、フェノロサや岡倉天心らは、伝統美術の再興をのみ目指したのではなく、「『日本的』であると同時に『国際的』であることが求められ、それは近代国家としての日本が目指した国家像そのものだった。」という件です。  つまり、フェノロサや岡倉天心らは、精神的には国粋美術を目指しながら、表現形式、スタイル、方法論、芸術システム、などにおいては西洋のものを踏襲せざるをえない、その時代の国家観を背負って立っていたということなのです。日本画という概念は成立時に「日本国という国家のアイデンティテーの分裂」というジレンマを抱えて生まれてきたのです。少し長いですが、岡倉天心の「東洋の理想」から天心自身の言葉を引用しましょう。

「アメリカのペリー提督の到来は、ついに西洋の知識の水門を開き、それはどっとわが国中に氾濫し、ほとんどのこの国の歴史の陸標を一掃せんばかりの勢いを見せた。このとき、日本は、目覚めたその国の国民生活の意識を持って、古い過去の衣を脱ぎ捨てて、新しい衣裳を身にまとうことに熱意を燃やした。中国およびインドの文化の桎梏を断ち切る事が、新日本の組織者たちにとっては最高の義務のように思われた。ただに軍備、産業、科学においてのみならず、また哲学や宗教においても、かれらは西洋の新しい理想を求めた。それは、まだその光と影とを識別できなかったかれらの未経験の目には、すばらしい光彩を放って輝いていたのであった。キリスト教も、蒸気機関車を歓迎したのと同じ熱意をもって信奉された。西洋の服装が、機関銃を採用したのと同じように採用された。その生涯の地ではすでに古びて擦り切れた政治理論や社会改革が、ここでは、マンチェスターの陳腐で旧式な商品にとびついたのと同じ新しい喜びの歓呼をもって迎えられた。(中略)  個人主義の渦巻く狂瀾は、常にそれみずからの嵐のような意志をその法則たらしめようとし、破壊の苦悶において天空を裂くかと思えば、あるいはまた西洋の宗教や政治の新しい断片のいかなるものに対しても熱狂的な歓迎に突っ走るなどして、金剛石のごとく堅い忠義の盤石の岩がその不動の基盤を作っていなかったならば、国内の沸き返る騒乱の中に、この国を微塵に粉砕してしまったことであろう。  建国以来連綿たる宗主権の影にはぐくまれたこの民族のふしぎな粘着性、中国やインドの理想を、それらを創り出した人々の手からはとうの昔に投げ捨てられてしまっているような場合にすら、それをそのまったき純粋さにおいてわれわれの間に保存している粘着性、藤原文化の精妙を喜ぶと同時に鎌倉の尚武の熱情に酔い、足利時代のきびしい純潔を愛しながらも、同時に豊臣の華麗な壮観をも寛容する粘着性、こういう粘着性が、今日、日本を、西洋思想のこの突然の端倪すべからざる流入にもかかわらず、無傷に保全しているのである。近代国家の生活が日本人に余儀なくして帯びさせる新しい色にもかかわらず、自己に忠実にとどまるということが、本来、この国が先祖たちによって教え込まれた不二元(アドヴァイタ)の思想の根本的至上命令なのである。日本をして、現代ヨーロッパ文明のうちで日本が必要とする要素のみを、さまざまの源から選び取らせた判断の円熟さは、日本はこれを東洋文化の本能的な折衷主義に負うているのである。(『東洋の思想』岡倉天心より抜粋)」

 これを、かなり乱暴な言い方で要約すれば、「ペリー到来で西洋文化がどっと押し寄せて、西洋文化の荒波に飲み込まれてしまうかのように見えたが、実はこの波にもまれながら、自己に忠実にとどまろうとする二面性、その折衷性こそ日本(東洋)の文化なのだ。」と。  これは、ある意味かなり苦しいいい訳のようにも聞こえます。つまり、西欧化に突っ走っておきながら、自国の文化もいっしょに守っている、(実際には相当失った。)その融通無碍な日本人はすばらしいです。と言っているわけだからです。

<日本という国家の自己同一性の喪失>

 このことを、後世の我々が批判する事は簡単です。が、当時のフェノロサや岡倉天心の個別な問題と捉え批判するのでは、問題の本質を見誤ることになると思われます。先にも述べましたが、「新時代の美術は、『日本的』であると同時に『国際的』であることが求められたのである。それは、近代国家としての日本が目指した国家像そのものだった。」つまり、国家そのものが宿した分裂という病の帰結として日本画が成立したからです。明治期以降の日本国民のアイデンティティーの分裂について精神分析学者の岸田秀の説を紹介したいと思います。 「圧倒的に強力な他集団の威嚇ないし侵略に直面したときの集団には、選ぶべき二つの道がある訳である。一つは、滅亡ないし植民地化の危険を冒しても、集団の文化的伝統の枠内にとどまり、集団のアイデンティティーをあくまで守る道と、もう一つは、人格分裂ないし精神分裂の代価を払って外的適応を達成する道である。」  つまり、明治時代のいわゆる黒船来襲以降の日本は、後者、人格分裂ないし精神分裂の代価を払って、外的適応を達成するという道を選んだのです。

もう少し詳しく見てみましょう。 「ペリーショックによって引き起こされた外的自己と内的自己への日本国民の分裂は、まず、開国論と尊王攘夷論との対立となって現われた。開国は日本の軍事的無力の自覚、アメリカをはじめとする強大な諸外国への適応の必要性にもとづいていたたが、日本人の内的自己から見れば、それは真の自己、真実の伝統的日本を売り渡す裏切りであり、屈辱であった。この裏切りによって、日本は自己同一性の喪失の危機にさらされることになった。この危険から身を守るためには、日本をそこへ引きずり込もうとする外的自己を残余の内的自己から切り離して非自己化し、いいかえれば真の自己とは無関係なものにし、内的自己を純化して、その周りを堅固な砦でかためる必要があった。この砦は、B・ベッテルハイムの言葉を借りれば「うつろな砦」であり、自己同一性を確保し得るものではないのだが、自己喪失の恐怖にかられた者には、そのようなことにかまっていられる心のゆとりはない。そこで、不安定な内的自己を支える砦としてもってこられたのが天皇であった。(中略)
 開国は一時の便法であり、本音は攘夷にあった。政治機構から風俗習慣にいたるまで、急激な欧米化が実行される。不平等条約の改定をめざして、一方では富国強兵が叫ばれ、他方ではグロテスクなほど卑屈な鹿鳴館外交が展開される。これらのことは和魂洋才というスローガンによって合理化された。」

<国家として内的自己の発揚としての日本画>

 以上岸田秀の歴史認識を下敷きに明治の日本画の発生を捉えると、「日本画」という言葉は日本人の分裂に依拠して発生し、その内的な自己を存在意義として生まれた。ということです。当時の和魂洋才に象徴されるように、欧化を短期間で実現できなければ、アジアへ進出する西欧の帝国主義によって植民地化されてしまう(タイと日本を除くすべてのアジアの国が第二次大戦後まで植民地化および半植民地化された)が、逆に西洋に肩入れしすぎて急激な欧化(開国論)を進めると、それについてゆけない日本人(攘夷論)の反感をかい、国内の統制がとれなくなる。という矛盾を解消するためにも、いたしかたなく表面的な欧化はするけど、魂は日本人であり続ける。という、言い訳めいた論を自分自身に言い聞かせて、自己同一性を保ったのです。したがって、「日本画」という言葉が、その自己分裂の内的自己を確認するため採用された言葉だからこそ、「日本らしさ」「日本文化」がことさらに強調されました。それだけでならまだしも、「純粋な日本化」が観念的にでも保たれた可能性もありますが、(そのような概念そのものが無意味といえば無意味ですが、)さらに、ことを複雑にしたのは、天心の「日本をして、現代ヨーロッパ文明のうちで日本が必要とする要素のみを、さまざまの源から選び取らせた判断の円熟さは、日本はこれを東洋文化の本能的な折衷主義に負うているのである。」という言葉でした。 
「日本人らしさって何?」ということが純粋に問われたならまだしも、同時に、その折衷主義を日本人の判断の円熟さとしてしまったために、余計に「日本らしさ」があいまいになり、その「あいまいさが日本的である」という、二重三重に不可解なものとなってしまったのです。


<日本画のその後の展開>

「日本画」という概念の発生を見てきた訳ですが、発生そのものはかなり政治的、社会的に企図され生まれてきたものだと分かりました。では、その後はどのように展開してきたのでしょうか。小学館発行の「日本美術館」をテキストとして、それにそって見ていきたいと思います。

<明治期の日本画>明治期

『狩野芳崖と横山大観』

 明治期の始め、日本国の外的自己と内的自己の分裂の結果、外的自己は洋画が、内的自己は日本画が主に担うようになります。特に、日本画の中心になったのは、フェノロサ、岡倉天心によって設立された東京美術学校の教師、生徒らです。その中でも、狩野芳崖、橋本雅邦は教師として、横山大観、菱田春草らは生徒として、両者は同じ東京美術学校に属していながら、40歳近くも世代が離れており、世代差が、決定的な違いを生む事になりました。両者の大きな違いは、まず、狩野芳崖らが、グラデーションによる立体感を表現しながらも、あくまで線を主体に構成しようとしたのに対して、大観らは没線主彩の朦朧体で描いた事でした。朦朧体は線を排除して、色面で表現しようと試みたのです。また、芳崖らが粉本による既存の画題を扱ったのに対して、大観らは新しい画題を自分たちで生み出しました。(画想の創出)。特に、古い仏画や水墨画の画題から離れ、新しい国家観や歴史観を反映した歴史画が重要な位置を占めた事でした。ここにも、伝統的な日本画からの脱皮と同時に国家の美術という意識が非常に色濃く映し出されているのです。

『幸野楳嶺と竹内栖鳳』

 東京に対して、京都の日本画は幸野楳嶺とその門下生、竹内栖鳳らが中心に活躍していました。幸野楳嶺は氏族の出身で、他にも有力画家の多くに氏族出身者が見られたため、明治期の京都画壇は、士族画家と宮中の御用を務めた画家を中心にリードされるのでした。その意味においては、極端な欧化が東京の国家間を色濃く反映した日本画と比べて、江戸から明治にかけての油絵の技法的な吸収にも、あまり破綻がなく、スムーズに移行したようです。したがって、画題にも東京のような歴史画が少なく、伝統的な山水風景や花鳥走獣が多く見られました。

『松本楓湖と梶田半古』
 今では、他の日本画家に比べて、知名度が低くなっていますが、この二人に、小堀鞆音を加えた3人は、その門下生が後の再興日本美術院展の第二世代を代表する人材(安田靫彦、前田青邨、小林古径)を輩出した重要な位置づけを担っている上、彼らの弟子たちが作った研究会「紅児会」に、先に挙げた3人と速水御舟、今村紫紅と院展第二世代の中心人物すべてがそろっている点は特筆に値します。第一世代の横山大観らが東京美術学校出身だったのに対して、第二世代は彼ら、私塾の門下生だったということが、大きく違う点です。しかし、楓湖と半古らの最大の影響は歴史画を中心に据えた点です。特に国家体制に伴う皇国史観を背景に、新たな歴史画が描かれた拠点が日本美術院点だった事を考え合わせると、彼らの与えた影響は大きいと言えるわけです。

『富岡鉄斎』
 ここで、彼らと一線を画した画家が鉄斎です。彼については、南画・文人画が冷遇された中で、古い絵画観、いわゆる書画(詩書画三絶)に基づいて描いたにもかかわらず、生前も後世も画家として高い評価を受けました。そういう意味でも、明治の日本画の歴史観や価値観とかけ離れなおかつ、評価を受けた希有な例と言えるようです。


<日本画とモダニズム>
 大正から第二次世界大戦終戦ころまで 

『速水御舟と村上華岳』
 大正から昭和にかけて日本画の世界に大きな変化が起こります。代表的な画家は速水御舟と村上華岳で、共に、深い精神性と内面性をたたえた作品を生み出していきました。この時期に共通するのは、国家や社会にとらわれないで、自由に描く制作態度で、さまざまな実験を試みた事でした。特に、速水御舟は写実を追求し、「真実」をとらえようとしました。彼の「実在するものは美でも醜でもなく、唯真実のみだ。」という言葉に、そのことが如実に現れています。また、村上華岳も文展に入落選を繰り返した後、理想的な制作発表の場を求めて、小野竹喬、土田麦僊らと国画創作協会を結成しました。3人とも精神性の高い作品を発表しましたが、華岳はその後、他の仲間とのずれを感じ、神戸の花隈に閉じこもり、さらに内面化された作品を描き続けました。
 彼らに特徴的なのは、明治期の日本画家、特に東京の画壇の日本画家たちが、国家のアイデンティティーを強く意識して描かざるを得なかったのに対して、個人の内面へと入っていった点でした。もしかしたら、明治以降の日本画の歴史上で、一番画家が画家らしく生きた時代だったかも知れません。

『古典絵画の見直し』
 明治期の日本画家たちが、西洋の影響を常に意識したのに対して、この時代、先の時代に旧時代の遺物として切り捨てた観のある、南画・大和絵・琳派など、近世の日本の古典の絵画の見直しが始まります。南画を見直したのが、今村紫紅、小川芋銭、冨田渓仙ら院展の画家たちでした。また、大和絵の明るく色彩豊かな画風を受け継いだのが、今村紫紅、安田靫彦、小林古径ら院展の画家と、院展系以外では松岡映丘、吉川霊華らがいます。さらに、「こうした方向が、大正末期から昭和初期にかけて、いちだんと成熟の度合いを深め、さらに統合的に完成されて行ったのが、『新古典主義』と呼ばれる作風であった。この新古典主義の象徴的存在が、院展三羽烏と呼ばれた安田靫彦、小林古径、前田青邨三人である。以後、彼らが到達した明快な色調と細やかで強靭な線描を主体とする新古典主義の画風は、実質的には昭和初期における日本画の動向を決定づけるものであった。(「日本美術館」菊屋吉生より抜粋)」ということで、もう少し言えば、この時期の日本画の動向が現在も大きく日本画の世界に影響を与えていると言えると思います。

『日本画のデカダンス』
 また、大正時代の15年間を通じて、退廃的な表現の日本画が多く発表されました。それらは、一つにはこの時期に新たに生じた、人間と社会のひずみや軋轢に対する、若い日本画家たちの焦燥感が生み出したという面もあるし、また、西洋のアールヌーボーや世紀末美術、ラファエル前派などの影響も指摘されています。また、文学との関係、ぼかしによる描写なども挙げられていますが、これらは必ずしも新しい美術の傾向ばかりを取り入れただけではなく、幕末の歌川国芳、月岡芳年ら退廃派などの影響と、従来あった美人画のからの影響なども指摘されています。これら退廃的、耽美的な傾向を持つ作品、作家たちも、関東大震災による旧時代の崩壊と社会主義リアリズムへの思想弾圧などが原因となり、急速に衰退してゆきました。


『新しいモチーフの模索』
 昭和初期から戦時へ向けて、新しい動向が生まれてきます。一つは、工業化し近代化する都市の姿を作品に反映させようという気運が高まります。ビルが建ち並ぶ様子や、モダンボーイ、モダンガールをテーマにした作品、都会の職場で働く職業婦人、スポーツやレジャーの場面、工場や機械など。また、造形面での変化。単純な線と、明快な色面。
「この造形上の作風の変容は、必ずしも都市風俗をテーマとした作品だけに現れたわけではない。例えば地方の風景や風物をテーマに描く場合も、当時の若い日本画家たちは積極的に新しい造形要素を取り入れようとした、つまり彼らは、自らの周辺を昭和の新しい造形意識で、もう一度見直そうという姿勢をとったのであった。
 また、こうした態度は、それまでの日本画で扱われてきた伝統的な画題についても適用されてきた。歴史的神話や富嶽図や花鳥図など、日本という国を象徴するテーマにも新しい造形意識は、盛り込まれていった。
 しかし、こうした作品は、たとえ造形面で新味を発揮したものであったとしても、一方では、日本が軍事国家としての体制を固めつつあった状況を明らかに反影した、一種の「時局画」という性格を持っていた。そしてこれら「日本画」のもつ象徴性が、当時の「神国日本」のイメージづくりに容易に利用されたこともまた事実なのである。「日本美術館」(菊屋吉生)より抜粋」ここでも、背後に国家の影がちらちらします。


<戦争と美術> 戦時期

 この項は、『十五年戦争画の諸相』『戦争美術の読まれ方』『描かれた大東亜』『青年画家たちの戦争』『戦争の記憶』に分かれていますが、日本画を一つの項目として設定していません。それは、戦争止揚に日本画よりも、洋画の方によりリアリティーがあって利用されやすかった事や、あるいは、翼賛体制下、美術もすべてを動員するといった姿勢が特に洋画日本画の区別を必要としなかった事などがあるのかもしれません。したがって、日本画だけを抽出して考えるより、美術全体が国家とどう関わったかを軸に考えていきたいと思います。
 戦時画の目的は一言で言えば、「戦意高揚」ですが、戦争中に描かれ発表された絵画は、必ずしもそれだけではありませんでした。また、戦意高揚を目的に描かれたとされて発表されたとしても、それが大衆にそのままとらえられたともいえない絵画もありました。それぞれのあり方を5つの項目に合わせて考えてゆきます。

1、『十五年戦争画の諸相』「国家総動員」体制に加担した絵画。
 安田靫彦「黄瀬川陣」は、平家追討のために兵を挙げた源頼朝の陣に今しも義経が馳せ参じた場面を描き、「国家総動員」の象徴的な絵画となりました。また、日本を象徴する記号として、旭日、桜花、菊花、霊峰富士などが描かれますが、とくに国旗にも結びつく旭日をイメージした作品も多く描かれ、横山大観の「神州日本」は日本を神の国ととらえ、戦争の正当性を絵画によって主張した代表的な作品となりました。

2、『描かれた大東亜』「八紘一宇」アジアは一つという意味でアジアをモチーフにした絵画。
 代表的なのは岡田三郎助(洋画家)「五族協和」満州国の首都を見はるかす丘の上で五人の女性が手をつないで踊る図。五人の女性は、満州、朝鮮、中国、モンゴル、日本の擬人化と思われます。あるいは、洛陽の大仏を調査して保存しようとしている様を描いた川端龍子の「洛陽攻略」。捨てて顧みられない文化財を保護している様を描く事で、アジアの盟主としての存在を誇示しようとしました。

3、『戦争美術の読まれ方』「殉教画」としての役割。
 代表的なのは藤田嗣治(洋画家)の「アッツ島玉砕」「サイパン島同胞臣節を全うす」など、玉砕の場面を描く事で、国威の高揚を計ったが、軍部ではこれらの図が凄惨すぎるということで、一般に与える影響を危ぶんだと言われています。これらの絵画はその意図を超えて、大衆の間では大衆の観念で読み解かれ、戦意高揚図なのか厭戦的殉教図なのかは、紙一重でどちらにも作用されたとされています。

4、『青年画家たちの戦争』青年たちによって描かれた戦争画でない絵画
 松本竣介(洋画家)の「五人」。俊介自身の家族5人を描いた作品。当時の「産めよ増やせよ。」という風潮に従った母子像が多かった中、兵士ではない夫、父としての男性を描いた家族像は、それ自体が現在進行形で行われている戦争への意思表示でした。この時代に絵を描く事は、どのような形で描いても戦争との関連を持って読まれるという宿命を負っていました。そのため、画家自身がそれに賛美するのか反対するのかという選択を迫られる場でもあったわけです。そんな中、日本画家がどのように意思表示をしたかというと、麻生三郎、靉光、難波田龍起ら洋画の画家たちに比べて、これと言った動きが見られません。ただし、描かないという選択、つまり「筆を折った」画家も数多くいたとすると、日本画家たちがどのような態度で戦争中を生きようとしたのか即断する事は避けたいと思います。

5、『戦争の記憶』敗戦後の絵画
 敗戦後の数年間、戦争を忘れるために、あるいは忘れないために描かれた、もう一つの戦争画が描かれました。丸木位里・赤松俊子「原爆の図」浜田知明(版画家)「初年兵哀歌(風景)」香月泰男(洋画家)「埋葬」など、戦争の悲惨さがクローズアップされ、反戦的な絵画が描かれました。また、戦時中の国威発揚の絵画への清算が迫られたことも、ふれておかなければなりません。が、しかし、ここでも、日本画壇の中心にいた作家たちの動向は推し量る事ができません。彼らはどこで、何をしていたのか?少なくとも、反戦的な絵画を描いた丸木位里らが、画壇の中心にいなかったことだけは確かなようです。

<復興から成長の中で> 戦後間から1970年代くらいまで

『日本画の戦後世界』
 第二次世界大戦後の復興は戦前の社会文化への自己批判から始まりました。特に、日本画に求められたのは、絵画としての思想性や社会性でした。この時期、団体展の統廃合や立ち上げが進みました。 ここで特筆すべきは日本画の中から、大衆の支持を受けた国民的な画家が生まれてくるという点です。古くは横山大観、最近では東山魁夷、平山郁夫に代表される画家たちです。彼らは、平和志向の大衆から支持を受け、誰でもが愛好する絵画というジャンルが生まれてきたということ、そして、その流れは現在も強く残っているのですが、ただし、そういった国民的な画家が出にくくなっているという現況もあるかと思います。
『日本画の世代交代』
 1950年代後半から、日本画家たちも世代交代が起きますが、その詳細は省いて、1970年代に日本画変革の気運が急速に衰退していった経緯の方がおもしろいので、そちらを抜粋。
「しかし、こうした日本画変革の気運も、1970年代に入ると急速に衰退していく。その要因としては、いわゆる現代美術が、絵画なども含めた従来の美術の形式から離れていく傾向を深めていったため、日本画との連関がしだいに失われていったことがある。また、美術マーケットが、ひたすら売れやすい安易な具象画としての日本画をもてはやしたことなど、さまざまに考えられる。だが、端的にいえば、日本画家たちの意識そのものが、広く美術全体を視野に入れようとするよりも、日本画のジャンル内部だけでの自己表現の深化を目指すようになったことが大きかったといえるだろう。日展、院展と、1974年に新制作展から独立した創画会展の鼎立時代がしだいに深まっていくが、その一方で、かつては独自の方向や主張をもったそれぞれの美術団体が、ほとんど内容的にも等質化してしまうという状況も起こってきた。(『日本美術館』菊屋吉生より抜粋)」
 つまり、日本画の保守化が進行していきます。経済活動と公募展システムと、平和愛好という国民の支持に守られて日本画全体が絵画の自律性、革新性を見失い、現状追随に流れて保守化していきます。その方向性は現在の日本画壇にも色濃く反影しています。


<情報化社会の美術> 1960年代くらい以降

『日本画の新しい流れ』
 ここは、この論文のテーマである「日本画とは何か?」というテーマと密接に関連があるので、詳しく考察してみたいと思います。まず、「日本画とは何か?」という疑問が生まれる事自体が、現代の社会と日本画の関わりのずれが大きく起因しているということを指摘しなければなりません。例えば、明治期に「日本画とは何か?」という疑問そのものが、あまり意味をなさなかったと思われます。なぜなら、それは時代の要請だったからです。制度面で、日本国として西欧に負けない美術を造る事。日本人としての内的自己を確認しようとした事。それを実現しようとしたわけですから、考える間もなく実現する事に重きがおかれました。大正時代には、伝統的な絵画と西洋的自我の葛藤の中で、「日本画とはなんぞや?」を問う動きはありましたが、それも、戦争へ向かう過程の中で、次第に収束して行きました。戦後復興期も、日本画滅亡論などが叫ばれる中、日本画を活性化する動きもありましたが、緊急な生き残りをかけた戦いだったこと、あるいは経済的事情によって、「日本画とは?」という問題提起が純粋な意味で問われたというよりは、現実に寄り添って生き伸びたという側面が強いのではないでしょうか。
 その疑問が疑問として前景化してくるのは、社会が安定し、自問自答することができる時代になったことの現れではないでしょうか。つまり、今のように価値観が混沌とした時代だからこそ、その問いが意味をもって顕在化してくるのではないかと推察できます。これについては、また後ほど詳しく述べるとして、少し長いのですが、『日本画の新しい流れから』(「日本美術館」菊屋吉生)引用してみます。
「日本画の素材と表現の可能性を探求し、そのジャンルの枠組みの限界を突き破ろうという試みは、すでに戦前にも行われていた。(中略)こうした動きは、やがて戦後の日本画の、もっとも先鋭的な動向にも確実につながって行く。(中略)パンリアルでは、既成の日本画壇の封建的体質や美意識を厳しく糾弾する一方、それぞれのメンバーが、一般的な日本画で用いられる以外の素材やモチーフに対して独特のこだわりを示しながら、自らの表現の可能性を示しながら、自らの表現の可能性を模索していた。つまりここでは、日本画の素材の枠組みを超えた実験が、すでに実作品で盛んに試みられていたのであった。(中略)とくに後者の関西の二つのグループ(ケラ美術協会、鉄鶏会)は、日本画の素材に対するこだわりをその発足段階から強くもっていなかったため、当然のごとくその作品形式は、技法や表現上からも日本画の限界から逸脱していった。
 結局こうした日本画変革の一連の実験的な動向は、明らかに1950、60年代の現代美術における前衛絵画の新展開と、密接に連関した動きと言えるだろう。1970年代に入ると、日本画界は、変革の波がうそのように沈静化してしまった。絵画というジャンルにこだわり変革していくという意識より、当時の絵画離れといった状況の中に、日本画の変革への情熱の沈み込んでしまった観がある。
 そして日本画家内部の素材と表現のせめぎ合い、つまりそれらの模索と葛藤の高まりを通して、自由で大胆な試みが盛り込まれた日本画が再び登場するのは、1980年代も半ばを過ぎたころからである。そこでは日本画の素材への深い思い入れはもつものの、それらを自らの表現の一要素としかみない若い日本画家たちが、なんの屈託もなく思いきった実験を繰り返すようになる。決まりきった表現形式やジャンル分けなど何ものにもこだわらない彼らの姿勢は、日本画の素材と表現のせめぎ合いの新たな局面の展開を予感させるものである。」
ここでの重要な指摘は三つあります。

1、 日本画が「日本画とは何か」という問いを自身に問う事で、新しい日本画運動を展開した。という点。

2、 日本画というジャンルの枠組みの限界を突き破ろうという実験が過激すぎて、結果として突き破ってしまい、日本画の限界から逸脱してしまった点。

3、 1980年代に「そこでは日本画の素材への深い思い入れはもつものの、それらを自らの表現の一要素としかみない若い日本画家たちが、なんの屈託もなく思いきった実験を繰り返すようになる。決まりきった表現形式やジャンル分けなど何ものにもこだわらない彼らの姿勢は、日本画の素材と表現のせめぎ合いの新たな局面の展開を予感させるもの」を生み出しつつあるという指摘。

 日本画はシステムとして時代と社会の要請に基づいて生まれ発展してきました。しかし戦後、それらの社会的、時代的な要請(必然性)がなくなり、作家たちが自律的に展開せざる得なくなりました。それと同時に、それらの日本画家自身の自立性は、社会の理想を求める空気があった1970年代くらいまでは、運動体として展開する事で社会性を担保していましたが、その後、社会が豊かになるにつれ、それら、社会のために絵を描くという意義が薄れ、画家たちは、自己の内部へとこもらざるを得なくなり、個々ばらばらに自身の日本画を検討し始めるのです。しかし、ばらばらになって社会性を持たなくなった事が、逆に、現在の日本画の存在自体を動機付けるエネルギーとなっているのではないかと思われます。別の言い方でいえば、現代若者のオタク化に伴い、日本画家たちもオタク化したことが、新たな日本画の可能性に繋がっていく兆しになって現れてきているということです。

<日本画の発生と展開のまとめ>

以上明治に生まれた日本画の発生とその後の展開をまとめてみます。

1、「国策としての日本画」
 明治期、日本国の急激な西欧化に伴い、日本人のアイデンティティーを確認するため「日本画」という概念が生まれましたが、発生時と同様に、日本的でありながら、西欧に負けない絵画、国際的に通用する絵画を求められました。それは、日本的でありながら、かつ国際的でなければならないという矛盾した責務を背負って発展したため、かなり無理な折衷化が図られ、それが、後々まで日本画の内的根拠を曖昧にし、と同時に観念的で形式的なものにしてしまいました。

2、「伝統的な日本の絵画との関連」
 大正から昭和にかけて、明治期に狩野派中心に行われた日本画の立ち上げからもれた南画・大和絵・琳派など、伝統的な絵画の見直しが図られました。

3、「西欧のリアリズムの影響と自我の目覚め」
 大正から昭和初期にかけて、横山大観や菱田春草らの国家を背負って描かざるを得なかった時代と一線を画した、自らの内部からの欲求に応じて絵を描きたいという動きが現れてきます。村上華岳や速水御舟、あるいはデカダンスの画家たちのように、国策から離れて、「絵画の真実とは何か?」など、自らの芸術を追求するという姿勢で描くようになりました。ただし、これらの運動も、その後の戦争で、また、国家のための絵画に収斂されていきます。

4、「国家総動員絵画」
 国家が戦争一色となっていく中で、「国家のための美術」という国策に則って、多くの画家が戦争に動員されました。その多くが「戦意高揚」を目的として洋画、日本画を描きましたが、中にはそれに疑義を呈する作品や、「戦意高揚」か「戦意喪失」かわからないような凄惨な場面が描かれ、単純に「戦意高揚」とだけ言えない戦争画も生まれました。

5、「国民的画家の誕生」
 戦後、国策から自立した絵画が生まれる過程で、国民的画家が生まれてきました。戦争への加担した画家たちは戦争の終結と同時に批判と反省を促されましたが、それにとって変わられるように、大衆の支持を受けた画家が生まれてきたのでした。戦時中に戦意高揚に加担した横山大観や向井潤吉(洋画家)小磯良平(洋画家)らは、戦後、平和的なテーマを描く事でそれらの一員に加わっていくのでした。同じ画家が戦時中と戦後でテーマを替え、国民的な支持を受けるという事に批判もありましたが、国民の平和志向に後押しされる形で、国民的画家ともてはやされるようになります。その過程で日本画の大衆化が図られました。それは、日本画が大衆の支持を受けたというプラス評価と、経済活動に則って、あるいはシステムに守られて保守化していったというマイナス評価に分かれるところです。その流れは現在まで続いています。

5、「日本画壇の保守化と運動体としての日本画、そしてオタク的発展」
 日本画が歴史上はじめて、社会や時代の要請から離れて、「自分たちの日本画とは何か?」という問いを自らに問いかけながら、美術運動を組織した時代。その後、運動体は解体しますが、その問いかけはそれぞれに向かって投げかけられ、一人一人の中で消化されると同時に、その問いそのものが見失われ、個人の表現のみが、自律的に存在する時代に突入しました。つまり芸術のオタク化が日本画にも及んでいるのです。保守化して低迷している日本画と、オタク化して時代、社会から遊離してはいるが、新しい芽吹きを感じさせる日本画と二つの流れが現状の日本画といえるでしょう。


はじめに

1、日本画とは?

2、材質・素材からのアプローチ

3、属性からのアプローチ

4、歴史からのアプローチ

5、システムからのアプローチ

6、日本画とは?/結論

7、現在の日本画の問題点

8、今後の日本画の展望

9、私にとっての日本画

おわりに

<参考文献>

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