桜襖絵花見

東京の桜もすっかり満開、この日はあいにくの雨。朝、上野原の学校に行ったのですが、雪でした。
道にもつもった季節外れの大雪に、大月方面は高速も止まってしまいました。
まだ、上野原は桜は咲いていませんでしたが、途中、ほころびかけた桜の花びらの上、うっすらと雪化粧です。
そんな、冬に戻ったような日の午後、西山さん宅で僕の桜の襖絵を前にお花見の会がありました。
当日は、企画をしていただいた亀山さんを始め、15人あまりが参加しての花見でした。
襖絵以外にも、玄関には桜が生けられ、桜のおにぎり、桜のおつゆ、日本酒桜楓と桜尽くしでした。
奥様の手料理、大変美味しくいただいました。(写真は自分の襖絵ばかりで、他のものがないのが残念です。)
最後は記念写真でお開きしたのは夜も11時頃でした。西山さんの御家族の皆様、御苦労様でした。ありがとうございました。

2003年4月5日 西山様宅にて

 

 僕の描いた襖絵も、居合わせた皆さんからたくさんの賛辞をいただき、昨日まで倉庫の片隅に眠っていたとは思えない輝きようでした。
もちろん、自分で描いた絵なので、それらの賛辞も自分のこととして喜ぶべきだったのかもしれませんが、半分は自分の過去を俯瞰しているような照れと、
半分は傍観者のような醒めた気分と二つが混ざりあって、身体は火照っているのに、芯が醒めていくような、妙な気分でした。
傍観者のような気分というのは、自分で自分の絵を観ながら、「この人よくこんな細かいとこまで頑張って描いたな。」というように、まるで、他人事のような気分です。
それは、この絵を描いた時の僕と、今の僕が連綿として繋がっているはずなのに、
そのとき何を考え、どうしてそうなったのか、今の自分にはっきりと理解ができないからだと思います。
それは、感覚的な言い方をすれば、その時、何かに憑かれていたといっていいのかもしれません。

 暗い照明に浮かび上がる櫻の花びらがひとひら、ふたひら、舞い落ちる。
さっきまで、威圧的に観客を見下ろしていた太い幹が、照明を落とすと同時に消え、代わりに花びらだけが画面から浮き上がる。
そんな見るともなく視覚に入ってくる花びらに酔い、酒を酌み交わし、さらに酔う。
話がひとしきり盛り上がり、笑った後のしばしの間(ま)。瞬間、空間の歪みに落ち込む。何処ともしれない、櫻の花と花の、あるいは樹下。土中。
いつかの記憶が突いて蘇る。それは記憶というより、記憶の核のようなもの。一瞬、蘇り消える。
そこに居合わせた一人一人が、ある思いを抱いて集まり、言葉を交わし、酔う。それぞれの思いが絵の上に投影された時に、皆の中にあるイメージが立ち上がり空間が共有される。
絵は触媒に過ぎない。そして、作者というのは、その手足に過ぎない。

もし、この花見の宴で誰かが何かを感じ、思いを馳せたとすれば、その日、衆目は「花に酔うために集まり、花にあてられた。」そういうことだ。

 僕の作った絵がその触媒足りえたという喜びは、素直に受けとめ、
この宴を催していただきました西山様、この場を設定していただきました亀山様、お集りいただきました皆様に深く感謝申し上げます。

 宴会

このために、梁にくぎを打っていただいてすみません。

西山さん、朝から襖絵を飾るための用意御苦労さまでした。

照明の当てかたで、随分花の印象が変わります。

こんな感じで花見です。

唯一の子供草馬もたくさん気を使っていただき
ました。

この絵を描いた目的の半分は、宴会のためですから、
この日は念願かなってというところです。

この後、襖絵を撤去して花がなくなると、祭りの後の侘びしさが漂います。それもまた、花の花ゆえんでしょうか。

最後は皆さんで記念写真。

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