(村野氏のサイトはこちらです。)
村野君の初の個展。
小さな部屋におずおずと控えめに展示してあるその様子がなかなかいい。
本人は「まな板の上の鯉」状態にだいぶ欲求不満ぎみであるが、まあ個展なんてそんなもんかと思う。
ちょっと話し違うけど、内田樹さん曰く。1980年代の調査で、大学でここ五年間に論文を発表していない教員が全体の25%いるという結果が出ているそうである。大学の教員のうちだいたい25%が教授で、残りが助教授か助手たち。そして、助教授や助手の人たちは、論文を発表しないとその上に上がれないから、その多くが発表していると考えれば、論文を発表していない25%の教員とはほぼ教授にあたるのではないか。ということが推測されるそうである。その上で、内田さんは発表すべきではないか。と述べる。その理由はその教授がどういう教授かその論文を見ればわかる。つまり、「情報の開示」として必要だということだ。
これは、美術の世界にあてはめれば、発表しない大学の美術教員ということだけど、まず、あまりイメージしにくいかもしれない。
少なくとも作品を発表するということは、その人の実力やらなんやらが一目瞭然になることだ。それを「まな板の鯉」と言ってもいいが、すべてをさらけだして査定してもらう。そこから、次のステップが見えてくるんだと思う。教授ともなれば、うかつに論文を発表して批判に晒されるより、今の状態を続けたいと思うのかも知れない。そういう意味では絵描きは正直である。一生描き続け、発表し続けるからだ。発表すれば必ず批判に晒される。肥溜に捨てたくなるようなものもたくさんあるかもしれない。批評とはそいうものである。まあ、それも、いいじゃない。と思えるようになったら、立派なおじさんかも。かくいう僕はまだ、人の批評に一喜一憂しているので、まだまだ若い。たぶん。
でも、村野君の作品はなかなかいい。と思う。ほんと。
作品が「ただ」いいというのではなく、良くなくても、つまりはずしていても、はずしている事が感じ悪くないのだ。なぜか。たぶん、本人の中でまじめにはずしているからだと思う。「まじめにはずしてる」から、見ていてすがすがしいのだ。
そういうと、みんなはずしているように聞こえるかも知れないが、そんなことはない。結構、つぼにはまるとさらに気持ちいい。
次回、個展が楽しみである。
ほめているんだけど、ほめているように聞こえるかなあ。聞こえなければごめん。村野君。