「時間と空間の共有」 |
2001/09/14 |
今日、14日(金)、明日15日(土)と文化祭です。毎年恒例の文化のお祭りがやって参りました。今年は、文系選択美術の生徒たちで、「高校生活」をテーマにした共同制作を描きました。絵を描くことは基本的に個人レベルで行われることが多いので、共同で一枚の画面を作ることは結構やってみると難しいものです。一枚の画面に向かいながら、一人で絵を描いていることもしばしばで、絵を描くことを通して、コミュニケーションを計ることは随分、大変だったようです。最初は絵を描いているときは、一人で画面に向かって、絵を描いていないときは、他の事をおしゃべりしていたような面もありましたが、だんだん、描いていないときに、他の生徒のイメージを自分の中に取り込んで、画面に向かうことができるようになり、しだいに、共同作品は、画面ではなく、彼らの存在する空間と時間の間にできてきていたように僕は感じました。これは、その場を共有したものにのみ得られる貴重な時間と空間だったように思います。台風で流れた時間の制約などももあり、いくぶん画面は消化不良をおこしてしまった側面もありますが、それを差し引いても、充分に力をあわせて作り上げた作品としてのリアリティーがあると信じています。 |
わかっちゃいるけど、やめられない。 |
2001/07/31 |
(選挙での自民党圧勝を受けて) たしかに、自分の身体を自分で手術するなんて普通できないわけで、今の自民党、自分でメス持って自分の腹きれるのかという感じがありますよね。選挙で、さっそく郵政官僚が上位で当選しているし。そんな時、外部から来て、手術してくれるのは、当たり前ですが、一番いいわけで。カルロス・ゴーン氏はその一番いい例でしょうね。もう少し論をすすめれば、大橋巨泉氏がいっている2大政党政治は、それができるシステムで、一方が腐ってくれば、一方が手術をし、また、一方が腐ってくれば、一方が手術をするといった、民主主義が成熟している国はほとんどそのシステムですね。日本が、このシステムにならなかったのは、いろいろ、原因はありますが、一番大きいのは、やはり天皇の存在ですよね。天皇そのものが、いつの時代も実質的な権力と、その権力を補完するシステムとしてあったということではないでしょうか。つまり、天皇がつねに、時の権力をチェックする機構として働いたということです。もちろん、天皇が、直接働きかける場合もありますが、ほとんどの場合は、間接的に別の勢力を保証するといった形で働く場合が多かったのではないでしょうか。ところが、民主主義は天皇制を想定していませんから、形の上では、民主主義ですが、システム的には、従来の時の権力者(今の内閣)と天皇という構造が、そのまま温存され、ここで、権力のチェック機能が働いていたわけです。(終戦の時の天皇の御聖断というのは、そのいい例だと思います。にっちも、さっちもいかなくなったら、外部(天皇)に決めてもらうわけです。)今、そのチェック機能を民主主義の枠内に作ろうとしているのが、今の民主党ですよね。やはり、歯医者にいかないと虫歯はなおらない、わかっちゃいるけど、いきたくない。それが、人情というものでしょうか。 |
「絵が描けないと思っている人へ」 |
2001/07/11 |
今日、家庭科のMさんが、「私、絵が描けないんです」とおっしゃっていましたので、「絵がかけない人はいないんですよ。上手に描けないことを、描けないといっているのです。」と。お話いたしました。自分で絵が描けないと思ってらっしゃるかたが、たくさんいるかと思いますので、せっかくですから、ここで、とりあげさせていただくことにいたしました。皆さん、字が書けるのと同じくらい、あるいはそれ以上に絵を描くことは簡単です。鉛筆持って、紙に何かを書けば、猿でも絵は描けるというわけです。でも、ここで描けないといっているのは、上手に描けないわけです。ところが、上手に絵を描く必要があると思っているのは、本人だけで、回りはあまり気にしていません。人の絵のことなんか、うまかろうと、へたであろうと基本的にはどっちだってよいのです。つまり、自分だけが下手だから描けないと思っていて、尻込みしているに過ぎないのです。 といっても、やはり、へただとかっこうわるいと思う向きもあるかと思いますので、ここで、一つこんな例をあげささていただきます。僕の父は、大変あがり性で前に地方のテレビ局にインタビューを受けたときに、偉そうにふんぞり返っているように映っていましたが、実は、マイクから逃げるために身体が、だんだんと後ろに仰け反ってゆき、終いには椅子からずり落ちそうになりながら、答えていましたので、ふんぞり返っているように見えたのですが。それくらい、人前とかに弱いのですが。そんな父が、ある親戚筋の結婚式でスピーチを頼まれたときのことでした。一見緊張しているのは遠くからもわかります。1週間も前から原稿を考え、練習をしてきたにもかかわらず、案の定、しどろもどろになってきました。原稿をうつろな目でおいながら、何か喋らなければと思うと余計に、緊張し、さらに、自分で喋っていることに、自分で感極まり、ついに、喋れなくなってしまいました。すると、どこからか、頑張れの声に混じって、「気持ち分かったから、もういいよ。」とのかけ声があり、相手の親戚筋から、壇上にあがってくるものあり、何とか、声をつまらせながらも、スピーチをうちきり、壇上を後にしたのですが、実は、このことがきっかけとなり、それまで、どちらかというと、粛々とすすめられてきた会が、一挙に盛り上がり、踊れや歌えやの宴会に突入して行ったのでした。このことは何を意味するかといえば、つまり、彼は、表現が下手だったために、却って、自分の気持ちがストレートに伝わり、表現において一番重要な、心を伝えることができたということです。喋らないことが、表現においては雄弁に語ったわけです。プロはこうはいきません。プロの司会者が途中で泣き出してしまっては、興醒めするばかりです。つまり、表現者として、真のアマチュアリズムがあるとすれば、それは、本当にその気持ちになりそれを伝えようとすることです。本当に伝えたい気持ちがあれば、それは伝わるというものです。失敗するケースは、伝えたい気持ちがないのに、いいことを喋ろうとする場合です。 ついでにいえば、プロは、形式通りきちんと仕事をこなせる人だと思っている人がいますが、それはプロではありません。プロのプロたるゆえんは、気持ちがなくても、その気持ちになれるということです。知らない人の結婚式でも、おめでとうと気持ちが込められるのがプロというものです。女優がそのシーンで涙を流せるのは、涙を流す修行をしてすごいのではなく、涙を流すくらいの悲しいイメージを自らの中に作ることができることがすごいのです。 以上、くどくどと語ってきましたが、結論は、しろうとはうまい絵を描こうなどとは夢にも思わず、自分が、何を伝えたいのか、何を描きたいのかを一心に念じ、それを描こうとすることが、いい絵を描く一番の方法だということです。それでも、やはりうまい絵を描いて、人からほめられたいと望まれる方は、「ボブさんの絵画教室」を見て下さい。これは見事です。が、うまくなろうと思えば、それはそれなりのリスクがあることも、覚悟がいるかと思います。ということで、家庭科のMさんとのお話の中でいい足りないこともあったので、公開質議という形で答えさせていただきました。 |