「喧嘩の後始末」

2001/06/19

前に、NHKの番組でアグネスチャンが日本の幼稚園とアメリカの幼稚園、両方、自分の子どもを通わせて、一番違ったのが、子どもどうしが喧嘩をしたときの対処だということでした。日本では止めさせるのに対して、アメリカでは喧嘩のルールを教えていたということでした。いちがいに、日本とアメリカという区切りがあてはまるかどうかわかりませんが、でも、そういう面はあるのかなと思いました。学校の先生が、喧嘩を指導するのは、日本では、なかなか、コンセンサスが得にくいと思われます。つい、止めてしまうことが多いのではないでしょうか。本来は喧嘩もコミュニケーションの重要な一部であるならば、最後まで、子どもたちで解決させるのが筋かと思います。昨日、路上で信号待ちをしていたところ、後ろから、すごい勢いで僕を追いこして、交差点のまん中に横付けにしたクルマがありました。いったいどうしたのかと思ったら、どうやら、一番前のクルマの運転手と一件あったみたいで、追いこして行ったクルマの運転手が、信号待ちのクルマの運転手に向かって、おりて行って、窓越しに「バカヤロウとはなんだよ。」と怒鳴っていました。しつこく外のおっさんは叫んでましたが、一方の運転手は窓を閉じたままでした。僕も、いつまでもつきあっていられないので、クルマを追いこしてその場を離れたのですが、すれちがいざま覘くと怒鳴られている側の運転手は携帯電話でどこかに連絡していました。まあ、順当に考えれば、警察に連絡していたのではないかと思いますが、バカヤロウとタンカを切った以上、あやまるなり、言い合うなり、なぐるなり、なぐられるなり、自分で解決すべきところでしょうと思いながら通り過ぎました。(まあ、話の詳細ははっきりしませんが、)ただ、その怒鳴られている方の運転手も今この御時世、こういう、都会の知らないものどうしの喧嘩はリスクが大きいとは思うので、(それこそ、包丁でさされるとか、拳銃でうたれるとか、)警察に連絡するのがまあしょうがないのかなと思いながら、でも、釈然としませんでした。そういう意味では、話し演繹し過ぎるかも知れませんが、喧嘩がコミュニケーションになりにくいように思います。村社会では、このへんの喧嘩はある規範があってどっかで、どっちかが引くか、あるいは誰かの仲裁があったりして、このあたりが落し所なんていう了解がなりたつのかもしれませんが、いかんせん、今は何があってもおかしくない社会です。そこまでのリスクをおうべきかどうか確かに疑問です。また、怒鳴られている側は子ども連れだった様ですが、子どもから見れば、大人が、自分のやったことに対して自分で責任をとらない姿として映ったのではないかと思いました。「警察に連絡して、到着を待って、事情を説明して、一件落着」ではなんか違うよなと思ってしまいました。このケースはお父さん降りて、すいません。と謝ればすんだように思うのですが。まあ、そうはいっても、それですまない人も出てきてはいますから、しょうがないのかなと思ったり、思わなかったり。難しい時代ですが、結論からいえば、最後まで行く気のない人は、バカヤロウなんてみだりに発言しないほうが賢明かと思われます。特に子ども連れのときはなおさらです。あなたの後ろ姿見ていますよ。子どもたちは。

「正しい情報の食べ方」  

2001/07/02

 正しい情報があるのではなく、情報を正しくするという方が近いのかも知れません。昔今の話はつい紋切り型になってしまうのですが、あえてすると、生活が実体験にそって行われていた時代には、ほとんどの情報は実体験に基づいた正しい情報であったように思います。種はいつ蒔けば良いかといったような。でも、今は、実生活から遊離した、経験を通さない情報が僕らの回りをぐるぐる回っているので、それらを、一旦自分の中で、整理しなければいけなくなってきています。一番良いのは、それらを実体験として、自ら行うのが良いのでしょうが、なかなかそうはいきません。コンピューターの性能なんか実体験しようとするとこれはコンピューターおたくになるしかありません。

 そこで、判断力、知識、洞察力をフル稼動させて、その情報が自分にとって正しいものかどうかを判断する必要があるわけです。しかし、そのことについては、実体験がなくても、別の点で、僕らは実体験を持って生きているわけですから、それを応用させれば良いのではないでしょうか。たとえば、小泉さんが郵政の民営化がどうのといったときに、その内容についての正しい情報をえようと思えば、それの専門家になるしかないけど、そんな暇も、エネルギーもないのだから、望むべくもなく、それよりも、小泉さんの顔の表情、語り口調の中に我々が判断できる大きな答えが隠されているように思います。人は、みんな、人を視ることにかけては専門家です。あ、この人嘘いってる。と思えば、それは、やはり嘘でしょう。あ、この人、本当のこといっていると思えば、それは本当ではないでしょうか。もちろん、テレビというフィルターを通っていることには違いありませんから、そこは、疑ってかかる必要があるように思いますが。

 でも、いずれにせよ、僕らが判断できるのは、そういう部分だと思います。で、ついでにいえば、信用したのは自分ですから、信用して、騙されたリストと、信用して、正解だったリストを作って、自己採点表を作ってゆけば、トータルで、自分の情報分析力の自己評価ができるのではないでしょうか。その自己評価が高い人は、自分の情報分析力は一定の信用がおけるし、低い人は当てにならないのだから、常に、疑って厳しく採点してゆくという姿勢を持てば良いので、こんな方法もおもしろいかと思います。3勝10敗。とかただし、答えの出る方が少ないので、これは、あくまで、基準が、自分に片寄る傾向があるので、結局は、自分本意にならざるをえないのですが。その意味では、幸福の価値観ということになってゆきますよね。なんでも、オーケーな人はすべての情報は自らによって解体されているし、すべてがダメな人、何やっても、幸せだと感じない人はすべての情報が別な意味で解体しているわけで、どちらにしても、情報が意味を持っていません。しかし、同じ情報が意味を持っていないにもかかわらず、幸福度が全然違うので、どちらが良いかはその人次第でしょうか。

 ということで、つまりは、正しい情報なんていうのは、あってないようなもので、自ら、幸せの基準を持つことが、情報を情報から知恵に変える力を持つのではないでしょうか。

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