おじんにとってのダンスマン |
2003.4.07 |
先日、u−i君の勧めで、ダンスマンというアースウインドランドファイアーのコピーバンドを聞いた。そのとき、基本的に興味はないが、もし感想を聞かれるならば、という前置きで、「こんなことをやっていて、自分の人生寂しくないのかなと同情する」と言うようなむねの話をした覚えがあるが、昨日、たまたま、テレビでこのグループが出演して、演奏していた。そのとき眼にした光景が、また、別の視点から考えさせられたので、そのことを述べようと思う。 まず、このバンドは、アースの英語の歌詞の雰囲気をなるべく変えないように、日本語の歌詞を当てはめて唄っている点で、今までになかったコピーバンドであるが、それよりもなによりも、彼等がオリジナルであるとするならば、元の曲が持っている本来的な部分(その曲がその曲であるための非常に肉体化された、どろどろした部分)をすっぽり切り落として、デジタルな信号(記号としての音の快感)をのみ、提示している点である。その意味で、かれらは、テクノである。実体のないバーチャルサウンド。 このありようは、何かに似ているなと思いついたのが水墨画である。水墨画も、中国から輸入されたものであるが、中国水墨画の持つ、異様なまでに執拗にモノにこだわっていく部分(リアリズム)が消え、日本では、それは、「あっさり」の代名詞になり、お洒落で、感覚的なものへと変容を遂げることになる。そのことを、いみじくも、加山又造は海外の文化が日本文化に取り込む過程で、やはり、中心的な命題がそぎ落とされて、形式だけが、輸入されたと指摘している。それを、形骸化と呼ぶのであろうが、その意味で、ダンスマンは、その形式を踏襲した上にさらに、形骸化していると言う意味で二重の伝統的様式美の枠におさまっている。80年代の日本が、バブル経済の急坂を駆け登ったそのころ、「ださい」「うざい」など、感覚で物事を断罪するようになったことや政治的無関心、自分がどうあるべきかではなく、どう見せるかにしか興味のないお立ち台のボディコンギャルなどの、社会的状況とテクノの隆盛は切っても切り離せない関係にある。 そんな80年代のばか騒ぎを、この21世紀に復活させようとするような、この気分は、IT革命でバブルの再現を願う政府の有り様とだぶって見えるのは僕だけだろうか。この閉息的な状況の中で、若者が、生理的テクノに奔るのはいたしかたないとしても、「いい年こいたおじんがテクノはないんじゃないの。」と、ふと、思う今日この頃である。 (これを受けて、u-1さんから「フェイクであろうと、情熱が感じられればいいではないか。」とういうような主旨の御発言がありました。それに答えて以下のような文章。) 僕が述べたかったことは、かいつまんで言えば、おたくかそうでないか。あるいは、もう少し大袈裟に言えば、芸術か、そうでないかということです。そのふたつを、隔てるものは何かと言うと、一言で言えば、死の問題を扱うか否かです。死の問題を扱うということは、もっと言えば、生きることをどう捉らえるかということです。おたくであることや、芸術でない美術はつまるところ、どう生きるかということについての、問いかけがないということです。「今、楽しきゃいいジャン」という発想は、死からいかに目を背けるかということで、未来から逃避している。ということは、過去からも逃避しているということであり、さらにいえば、今から逃避していることでもあります。「今楽しきゃいいジャン」とまるで現在を目一杯生きているようで、実は、今現在から、目をそらしているにほかならないのです。 つまるところ、芸術とは、どう生きるかということを問いかけること、そのことが、芸術を芸術たらしめるわけです。その意味で「今のりのりでいいジャン。オーケー。」は芸であっても、芸術ではない。といいきれるのです。ただし、僕は、それらの音楽や美術や映画をいけないといっているのではなく、それはそれの、存在理由があるし、芸術には芸術の存在理由があるといッているだけです。今、その区別ができない人々が、芸を披露することを芸術家だと勘違いして、自分はアーティストだとか、誰々は、アーティストだとかいっていることは、愚かな現象ではあります。ついでにいえば、アーティストはカテゴリーに関わらず、ポップスの中にも、たくさんアーティストはいるし、芸術家と名乗る美術界の一流絵描きの中にも、芸術家でないおたくはたくさんいます。 結局、表現者にとって、一番大切なことは、自分の表現を謙虚に見つめるということ、また、鑑賞者にとって、大切なことは、その違いをよおく見極める目を持つということではないでしょうか。そして、その違いの優劣を論じるのではなく、必要に応じて、必要なけ、その両者を味わい楽しむと言うことが、大切なのではないでしょうか。両方あって世界は成りたっているのです。 (「言うのは易し、行うは難し。」今にして、言っている自分と描いている自分との落差に赤面です。 |
寄生虫のお話 |
2001/05/17 |
テレビでの話題を一つ。NHKの教育で見たのですが、マリア・カラスは、半年で100キロから55キロまで体重を落としたそうなのですが、どうやって、そうしたと思いますか。なんと、サナダ虫の幼虫を飲んだそうです。そして、これを喋っている研究者の方も、こともなげに言っていました。「私も研究のために飲んでみました。」そして、「しろうとの方はまねしないで下さい。」と。「どうやってまねするんでしょう」と突っ込みたくもなりますが。日本においては、寄生虫がほとんどいなくなる1960年ころから、アレルギーの子どもが反比例して増加したそうです。で、この研究者はその関係について調べたところ、寄生虫はアレルギーを抑制する機能を持っているそうです。簡単に言うと、アレルギー反応とは、外から侵入してくる異物に対してのからだの防衛機能が過剰に反応することで発生する病気なのですが、寄生虫は実は大きな異物であるにも関わらず、体内に共生するわけですから、この、防衛機能を機能させなくする働きを持っているそうです。ですから、寄生虫から抽出したある物質をアレルギーのねずみに投与したところ、100パーセント回復したそうです。ということは、花粉症や喘息、アトピーはこれでなおるのかと言うと、早計で、その物質は発ガン性があるらしくて、実用化されていないそうです。一長一短で、なかなか、うまくいかないものですが、それでも、そんな遠くない将来に、アレルギーの特効薬ができる日が来るかも知れません。 それで、最後にその先生が言っていましたが、なんでもかんでも、汚いものをよせつけないで、排除してゆくと、本来大して強くないOー157などの菌への抵抗力がなく死んでしまう状況が出てしまうそうで、もう少し、そういったものを忌み嫌わずに、共生を計ってゆくことが大切なのではないかと言っていました。確かに、マクドナルドの30分毎に腕から先を石鹸で洗うなんて発想はちょっと異常ですね。もちろん、それらは個々の企業の問題ではありますが。私たちが、もう少しそういったものに寛容になる必要があるのかも知れません。アンパンマンを見ていて、バイキンマンとドキンちゃんがいない世界なんて想像できないですもんね。いえ、バイキンマンとドキンちゃんがいないストーリー展開を想像するだけでも恐いですね。そんな気がするのは僕だけでしょうか。(4F美術準備室より) |