僕の教師像 (詩人吉増剛造)

 2000/11/26

 僕の卒業した多摩美術大学には「詩論」という授業があって、そこで詩人の吉増剛造さんが講義をしていました。その授業は人気があって200人くらいの生徒が集まっていました。彼が授業で話し始めると、それまでの猿山のような喧噪が、水を打ったような静けさに代わりました。彼は、決して、声を張り上げたり一本調子になったりすることはなく、目の前にいる一人の人間に語りかけるように話しました。時に、静かに、時に、熱く。

「タマガワコマガワ、ネコジャラシ タマガワコマガワ、ネコジャラシ」

彼の朗読はまるで、歌っているように聞こえました。魔術にかかったように、生徒たちは、彼の一語一句を聞き逃すまいと耳をそばだていました。彼が語る言葉には、それを支える核(魂)のようなものがあったに違いありません。それが、生徒たちの心をつかんでいたのでしょう。 

 そんな彼が実施した試験は、授業の中で学生が書いた作文について、一人一人に問う問題でした。

200人いたら200通りの試験問題。それは、封筒にはいって一人一人に手渡しで配られました。そのおかげで、僕に試験問題が手渡されたときには、すでに試験が始まって30分がたっていました。

 今日、自分自身が高校の試験監督をしているときに、ふとその時の情景を思い出しました。

「静かに、静かにしろ。」声を張り上げながら、その、デリカシーにかけるコミュニケーションのありように、あるいは、自分の作った試験問題のありように、本当に、彼らに伝えたいことは何なのか。本当に、彼らに必要な知識とは何なのか。思いめぐらす今日一日でした。

 僕にとっての教師像は、教師らしい教師ではなく、教師らしくない教師だったようです。(4F美術準備室より)

山田うどんにて「テンソ・・・。」

2000/11/25

 今日、山田うどんで釜揚げうどんを食べているときの話です。隣に座ったおっっさんが、「テンソ、一つ。」と注文を出していました。店員は、聞き返しましたが、同じく、「テンソ」を繰り返し、もう一度店員が訪ねたときに、おやじは、「てんぷらそば」と言いなおしました。しばらくして、今度は「ナマタマ、ひとつ」と声をかけました。今度は、「ナマタマゴですね。」と店員もすぐに理解しました。かまあげうどんに食らいつきながら、僕は考えていました。「なんでもかんでも省略すりゃいいてもんやないで。」 

 しばらく考えながら、それが、ふと、あることに似てることに気がつきました。2才の子供が、「これは、リンちゃんの靴下。」と言って、もらった靴下をはこうとしないのです。彼にとって、それは、「靴下」ではなく、「リンちゃんの靴下」なのです。これを、今読んでいる育児書に、こう解説していました。3才までの子供にとって、外部の環境を秩序化することが非常に大切なのだと。したがって、彼らは、物の順序が狂うことや、ある場所に物がないことや、所有が代わることに、不快感を持っている。ということだそうです。

 あ、なるほど、おやじにとって、それは、「てんぷらそば」ではなく、「テンソ」だったのです。 自分の生活を秩序だてるということが、子供にとって重要なだけではなく、我々大人たちにとっても重要です。なぜなら生活する上で、毎日繰り返すさまざまな事柄は、私が私であることを確認するための重要な儀式だからです。それが欠けると言うことは、私が私であることを脅かされかねないのです。それぞれの人が、何処にその根拠を於くかは違いますが、それらさまざまな儀式が生活を支えているということは確かなようです。

 絵を学ぶとき、私たちはデッサンから入ります。何故デッサンをするかについて、さまざまな考えがありますが、デッサンの本来の意味は造形活動における秩序を学ぶと言う点にあります。(*1)デッサンが秩序の確認であるとすれば、絵を描くという行為の意味は、秩序への反逆にあたります。秩序という枠組みから解放されて自由になりたい。それが、表現の原動力になります。一見子供は自由そうに見えますが、実は混沌から逃れて秩序を獲得したがっています。絵を描くことが、自由へのあこがれと秩序への造反だとすると、その行為は、まさにアダルトな行為といえるのではないでしょうか(4F美術準備室より)

(*1、補足)

 絵の善し悪しを判断する時、その絵がいいか悪いかは、観る側の判断にかかってきます。観る側が、おもしろいかどうかを基準にすれば、面白い作品が優れた作品ということになり、美しいかどうかを基準にすれば、美しい絵が優れた絵ということになります。その場合、絵の善し悪しの基準が違っていて、観る側は、それぞれがそれぞれの尺度で絵を観ることで良いわけですが、絵を描く側にとってみれば、何を目指せば良いか分からなくなって混乱してしまいます。スポーツを例に出せばわかりやすいと思いますが、勝つというはっきりとした目的に向かってがんばるところにスポーツの面白さがあるのです。美術の場合も、その基準が必要になるのですが、いかんせん、そのへんが一般的に言えば曖昧で、わかりにくいのが芸術です。

 そこで、その基準として適しているのが、デッサンということになるのです。デッサンの場合、遠近法がとれているか、空間が描けているか、モノの大きさや調子のバランスはとれているか、そういったものが比較的基準として成り立ちやすい性格を持っています。したがって、デッサンの大きな役割は、その基準を把握するという点にあるのです。