「ちょっと、シリアスな話」

2002/04/27

美術準備室、ほぼ毎日、覗いて、何か書こうとして、「何書くんだっけ。」と忘れている今日この頃ですが。そんな、今日、今、書くことがあります。なぜなら、今の今迄トライしていたからです。それは、愛機アップルコンピューターPC8500のG4化です。と書いても、ほとんどの人はわからないと思いますが。ということで、説明いたしましょう。もちろん、コンピューターに興味のない人は、読んでもおもしろくないかも知れませんので、読み飛ばして結構です。

「コンピューターの処理速度はそのコンピューターのCPUによって変わるのですが、僕の持っているPC8500(未だに僕のメインコンピューターです。)は2世代前の604eというCPUを使っています。これは、G2というカテゴリーのCPUの速さにあたります。その後、CPUはG3化され、有名なIMACやI BOOKは永らくこのCPUを使っていました。そして、2年くらい前(たぶん)にG4が出され、我が家のコンピューターはその8500以外はG3とG4を使っていたので、メインコンピューターが一番遅いという、メインコンピューターとしてのアイデンティティーを脅かされる事態がここ1年くらい続いていたのですが、やっと、ここにきて、名誉回復の大手術、PC8500のG4化が実現したのでした。」

 さて、コンピューターの大手術の後、(今のコンピューターは改造しやすくなっていますが、PC8500はその頃のコンピューターの中でも、いじりにくいといわれています。)2時間をかけて、大手術を終え、コンピューターを立ち上げると、新しいCPUの速さを示す、ウィンドウが表示され、無事G4化が終了したことを告げます。ここで、ホッと一息。そして、この難事業を終えた充実感が、あるはずなのに、この、空虚感はなんでしょう。

そうなのです。形が見えないのです。苦労した割には、これだけの成果がはっきり見えないからです。確かに、以前に比べ速くなったような気はしますが、「気がする。」それだけです。取り付け工事のみならず、オークションで競り落とし、一旦は入札を断られ、なんとか頼んで、(メールのトラブルで)やっと、手に入れたCPU。改造のリスクを乗り越えて、取り付けたCPU.。形が見えない成果というのは、自閉の世界へと入り込んでゆきます。自分でやって、自分で評価する。空しい。ということで、今、これを読んでいるあなたと、この感動を共有しましょう。貴方側からいえば、共有させられたことで、僕の自己満足を補完する役割を押し付けられてしまったのです。つまり、この自閉的な遊びの共犯者に仕立てられたのです。君は、もう引き返すことはできない。(ような気がする。)

川魚

2002/02/22

我が家では、昨年夏に名栗村の川でとったウグイとオイカワ、どじょう、たにし、カワニナなどを水槽で飼っています。われわれが部屋にいる時に、それら川魚たちは流木の影に身をひそめてしまって、出てきません。いないときになるとそこから、出てきて、少しFふらふらと泳いでいたのですが。いずれにせよ、川魚が観賞魚にならない理由が分かったような気がしました。「いるときにはいなくて、いないときにはいるもの。」となぞなぞになりそうですが。ところが、前々から買おうと思いながらのびのびになっていた、水流を作る装置を買いました、とりつけてみたところ、なんと、魚たちは、水を得た魚とはまさしくこれのことです。流れに向けて、泳ぎだしたのです。それまでは、流木の下でジッとしていた魚たちが。(一番大きい魚などは、体を砂の上に半分横たえているような有り様だったのが。)

今こうしてワープロに向かっている僕の目の前で、泳いでいます。

やはり、川の魚たちでした。

「フランダースの犬に思う」  

2002/02/07

今日、ビデオでまた、「フランダースの犬」を観てしまった。小学生の頃は、本で読むたびに泣いていたが、大人になってもやはり泣いてしまう。特に僕自身に子供ができてから、別のポイントで泣けてくるのである。例えば、おじいさんが死ぬ時に、ネロに「わしが逝ったら、となりのばあさんに相談しなさい。」と。となりのばあさんが、去っていった事を知らないままに、死んで行くシーンなど、我が身をついついおじいさんに投影してしまう。

 この物語は昔から思うに、ハッピーエンドなのか、アンハッピーエンドなのか、わかりにくい。いろんなことが、デフレスパイラルならぬ、悲劇スパイラルに陥っていて、悪い方悪い方に話が転回して行く。最後は死んでしまうから、普通に考えれば、アンハッピーなのだが、であるにもかかわらず、最後のシーンでは彼は救われている。一目観たいと思っていたルーベンスを一目観て、パトラッシュといっしょにおじいさんやお母さんのところへ昇って行くからだ。だが、はたして、救われたのだろうか。

 形式的には、これは典型的なメロドラマである。悲劇が「見ない」事から生まれ、喜劇が「聞かない」ことから生まれるとすると、これは、まさしく「話せない」ことの物語である。話せないとは、「金貨一枚ください。」と言えばいいのに、それを言わない事が不幸の原因になっていくということだ。

 最後のシーンでルーベンスを観てこれで、もう思い残す事はない、と死んで行くが、観て満足してはいけない。「こんな絵を自分も描きたい」と。思わなければいけない。ましてや、最後の希望を、コンクールでの他人の評価に頼ってはなおさらいけない。すばらしい絵を描いた事を、自分で評価しなければいけないのだ。ネロには厳しいかも知れないが、生きてなんぼだ。現に死んでは絵は描けない。純粋なだけにそれができない、そのことの哀れが他人の同情を買うかも知れないが、純粋さは芸を妨げる。図々しく生きる。それが、芸を生きると言う事である。

「ネロ死ぬな。立ちあがるんだ。」

この文章に対し「ネロが満足して死んでいったとすればそれでいいではないか」という御批判をいただき、それに以下のように答えました。

せっかくの反対意見ですので、ありがたく、反論させていただきたいと思います。「自分の人生は自分が満足できるかが大切。」まさしく、そのとおりですが、自分が満足するとはどういう状態でしょうか。私が、満足する状態というのは、私だけの問題でしょうか。いかがでしょうか。私は、他人があって、はじめて成立し、さらにいえば、私の満足とは他人の満足です。それを、別の言葉で、歴史と申します。だれしもなし得なかったことを成し遂げた時に、彼は英雄となります。もちろん、英雄になる必要はありませんが、だれしも、人が生きてゆくその連鎖から抜けることはできません。歴史から逃れることができないとすれば、その意味での満足を彼はえたかどうかです。彼が人生を託すべきは、展覧会の審査委員ではなく、アロアやジョルジュだということです。

 と、ここまで書いてきて、重大な見落としに気がつきました。彼は神の元に召されたということの重要性を今、認識しました。偉大な神がお造りになった歴史の中で彼自身が満足を得ていたとすれば。すべてが、神という物語の中におさまってしまいました。だからこそ、アロアは修道女になるのですね。

 Mさん、この物語を日本人の感覚で解釈してはいけないようです。彼の人生を全的に補完するのは私ではなく、家族でもなく、友人やましてや、コンクールの審査委員でもなく、神だったのです。自分が満足できる状態と言うのは、神の元に召されるということだったのです。

 日本人の感覚で言えば、悲しい物語ですが、これは、ハッピーエンドなのですね。

すみません、多分に自分で完結してしましました。でも、やっと、小さい頃から、この物語に抱いていた、なんともいえない居心地の悪さが今、解消しました。

「ネロよ安らかに。神とともに。」

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