櫻襖絵花見考

2003.4.15

 櫻の襖絵を描いてからすでに6年になります。この絵を描いた半年後、長男草馬が誕生し、あっという間の6年でした。先日、櫻の季節ということもあって、その襖絵を前にしての花見の宴を企画していただきました。外は冷たい雨の降る夕刻、Nさんのお宅に暖かく迎えていただき、気持ちの良い宴になりました。玄関には櫻が生けられ、料理にも櫻があしらわれ、櫻汁、櫻おにぎり、櫻銘の酒、そして櫻の襖絵、すべてが櫻尽くしで、贅沢な一日を過ごさせていただきました。

 僕の描いた襖絵も、居合わせた皆さんからたくさんの賛辞をいただき、昨日まで倉庫の片隅に眠っていたとは思えない輝きようでした。もちろん、自分で描いた絵なので、それらの賛辞も自分のこととして喜ぶべきだったのかもしれませんが、半分は自分の過去を俯瞰しているような照れと、半分は傍観者のような醒めた気分と二つが混ざりあって、身体は火照っているのに、芯が醒めていくような、妙な気分でした。傍観者のような気分というのは、自分で自分の絵を観ながら、「この人よくこんな細かいとこまで頑張って描いたな。」というように、まるで、他人事のように思えるのです。それは、この絵を描いた時の僕と、今の僕が連綿として繋がっているはずなのに、そのとき何を考え、どうしてそうなったのか、今の自分にはっきりと理解ができないからなのでしょう。それは、感覚的な言い方をすれば、その時、何かに憑かれていたといってもいいのかもしれません。

 暗い照明に浮かび上がる櫻の花びらがひとひら、ふたひら、舞い落ちる。さっきまで、威圧的に観客を見下ろしていた太い幹が、照明を落とすと同時に消え、代わりに花びらだけが画面から浮き上がる。そんな見るともなく視覚に入ってくる花びらに酔い、酒を酌み交わし、さらに酔う。話がひとしきり盛り上がり、笑った後のしばしの間(ま)。瞬間、空間の歪みに落ち込む。何処ともしれない、櫻の花と花の、あるいは樹の下の土中。いつかの記憶が突いて蘇る。それは記憶というより、記憶の核のようなもの。一瞬、蘇り消える。そこに居合わせた一人一人が、ある思いを抱いて集まり、言葉を交わし、酔う。それぞれの思いが絵の上に投影された時に、皆の中にあるイメージが立ち上がり空間が共有される。絵は触媒に過ぎない。そして、作者というのは、その手足に過ぎない。もし、この花見の宴で誰かが何かを感じ思いを馳せたとすれば、その日、衆目は「花に酔うために集まり、花にあてられた。」そういうことだ。

 僕の作った絵がその触媒足りえたという喜びは、素直に受けとめ、この宴を催していただきました西山様、この場を設定していただきました亀山様、お集りいただきました皆様に深く感謝申し上げます。

なぜ大人になると素直にかけないか。

2002/12/23

「子供は自由に思いつくままに絵を描いているのに、大人は素直に描くことができないのはなぜでしょう。」

というある人の質問に答えて。

「以前、デッサンの心得というようなことをお話したことがありましたが、覚えてるでしょうか。デッサンをするには3つの条件が必要です。

1、意志(やる気を持つこと)

2、感性(対象からいかにたくさんの情報を自分の中に吸収することができるか、あるいは、対象からいかにたくさんのことを感じ、抽き出せるか)

3、技術(対象から抽き出したことを、どのように表現することができるか)

その3つが揃わなければ、いいデッサンを描くことはできないようです。やる気はひとまず置いておいて、3の技術は修練すればなんとかなります。ならない場合もありますが、その場合は、修練すれば良いので、解決することは可能です。問題は2の感性(感受性)ですが、これは、なかなか大変です。ドガ曰く。「デッサンとは観る目だ。」というのは、まさにこのことです。「作者が対象をどのようにとらえたか。」同じモチーフを観て描いても、必ずしもみんながみんな同じように対象をとらえているわけではありません。いろいろな見方、つまり、感じ方があるのです。その感じ方が(対象をとらえたエッセンス)を描くのがデッサンだと言うことでしょう。その意味で、デッサンに一番重要なのは、感受性ということになりそうです。たぶん、その友だちが示してくれたのも、そういうエッセンス(感じたことの適格な表出)だと思われます。

 以上はデッサンについての考察ですが、では、絵を描く行為とデッサンの違いは何でしょうか。結論からいうと、思考力ではないでしょうか。1を意志力、2を感受力、3を表現力とするならば、デッサンと大きく違っている部分は、この思考力にあたる部分だと思われます。自らが、何かを観て感じる。それを表現する。そのときに、一度身体の中に入れて、その、感じたエッセンスを身体の中で何度も考え反芻しながら、温める作業です。多くの偉大な画家はこの作業を通して、自らを成長させると同時に、すぐれた作品を世に送りだしたのではないでしょうか。そして、これは、子どもには決定的に足りない部分です。

 それは、例えるなら、ワインを寝かせるのに似ているように思います。新酒をすぐに飲んでも美味しいけど、ねかせておいたワインの魅力。それは、もっと味わい深いように、(といいながら、味わい深いワインなんてろくに飲んだことありませんが。今年の夏に勝沼でたまたま入った店で、裏の倉庫から出してきてくれたワインは美味しかった。なんか、ぶどうのエッセンスがびっしり詰まっているような、全然、お洒落でなくて、そこで生活している人たちの実感がこもっているいるような味でした。)

 感じたことのエッセンスをすぐに出しても表現です。でも、それをいかに自らの経験や生き方や考え方の中で発酵し熟成して出すか。それが、デッサンにない油絵や日本画などの魅力だと思いますが、いかがでしょうか。

 ついでに言えば、今の受験制度や公募展システムの中で一番重要視されるのは、3の技術力、表現力の部分かも知れません。受験や公募展などが勝ち負けである以上、表現力の強さが、他との差別化を生みやすいのです。一番分かりやすい評価基準が技術力になっているのです。さらにいえば、そのことが、今の表現をする人たちの足枷となっていることは否めないような気がします。なかなか捨てられないものなのですよね。技術力って。これをなくすと、自分の表現の中核を脅かされるようで。でも、逆に言うと、技術は自分の表現したいことの内容が見えてきたときに、いつでも、動員できるように磨いておく必要もあるでしょう。いつ、描きたいものの像が出現するとも限らないわけです。そのとき、描き損ねると、一生描けないかも知れません。ちょっと、大袈裟かもしれないけど。10年に一度来る大波を待っているサーファーのような(本当にいるかどうか定かではありませんが)心持ちは絵を描く人はあるんじゃないでしょうか。この絵がきっと傑作になる。なんて。いつも感じているのは僕だけでしょうか。

1の意志力については、今回あえてふれませんでしたが、もし美術に才能があるとすれば、この部分かも知れません。それに向かってゆくエネルギー。これは、磨くと言うよりはもともと持っているもののような気がします。スポーツなどでいう闘争心のようなものかもしれません。

ということで、話はあちこちいきましたが、いずれ、自分自身で、悩んで答えを見つけて下さい。